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子供にとって家庭は最初の社会です

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家族

ひょうひょうとしておとなしい性格の父でした。

気が強く気難しい母とは真逆でした。

娘の私から見れば、母が感情的になって勝手な事を言っても、父は受け止めていたので、母は幸せな人でした。

母とは対照的に父の怒っている姿は思い出す事が出来ません。

母としては静かな父が物足りなく頼りなかったと、娘の私に父の悪口を言う事が多くありました。

父からは母の悪口は聞いた事が無かったので、どちらが耐えているのかは子供の頃から歴然としていました。

家庭は一番身近な最初の社会です。

子供の頃、母からよく父の悪口を聞いていたため、悪口を言わない父の方が人間性が上だと判断していました。

そして、悪口はその人の品位を下げる事を学びました。

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でも、母には様々な事を否定したくなる母の寂しい心がありました。

母は子供の頃に両親を亡くしています。

8人兄弟姉妹の下から2番目で、一番下の弟と共に、親戚の家へ預けられて育ちました。

弟を庇いながら苦労して過ごしました。

母の祖先は武士の家系で名家であるので、本来自分の方が父より身分が上だと言っていました。

父の祖先は農家だったからです。

私は反論するだけ無駄だと分かっていたので、頷いて聞いていたものの、農家は大切な食料を作っている立派な仕事だと学校でも習っていたので、偏った母の考えも好きではありませんでした。

たとえそのような話を父の前で母がしても、父は反論もしませんでした。

決して相手を否定しない父を見習いたいと思いました。

一時父の両親(私の祖父母)と同居していたので、父は母に感謝していました。

確かにその時母には気苦労があったので、父が母に頭が上がらなくなったのは理解が出来ました。

私にとっては優しい祖父母でしたが、義理の関係である母は気を遣っていました。

大人になってから母の苦しみを理解しました。

父は私のお願いをよく聞いてくれました。

子供の頃、私はお祭りが大好きでした。

屋台が好きだったのです。

母は屋台は衛生的に好きじゃない事があると言って連れて行ってくれませんでしたが、父にねだると一緒に行ってくれました。

綿飴やあんず飴、たこ焼きを父の少ないお小遣いの中から買ってくれました。

遊園地へも連れて行ってくれたのは父でした。

成長した私の帰宅が遅くなっても迎えに来てくたのは父でした。

気を張らずに話が出来たのも父でした。

母が癌で闘病していた時に、病院へ父と私と娘でよく行っていたのですが、ある日、面会時間が過ぎ私たちが帰宅の準備をしている時に父がふと笑顔になったのです。

孫である私の娘が父に向かって、帰りに一緒にスーパーマーケットに行こうと言ったら、父が笑顔で、

「いいよ。」

と言ったのです。

すると母がいきなり病室で父に物を投げつけ、

「何笑ってんだ!」

等と暴言を吐き出したのです。

孫と帰れる父の事を母は羨ましくなってしまったのです。

慌てて私が止めに入いりました。

私の娘も驚いてしまったため、

「孫の前でやめて!」

と言ったら、ようやく母が謝りました。

父は病気だから仕方ない、と言ったのですが、よくあるのかどうか尋ねたところ、二人の時はもっとひどいという事でした。

父を慰め、私には何かひどいめにあったらを何でも話すように伝えました。

病気は本人も辛いですが、一番身近な人の心も誰かが支える必要があります。

少しでもいいから父の支えになりたかった。

頷いた父でしたが、我慢強い父はその後も自分から愚痴は言いませんでした。

母は最期まで父に甘えられて幸せでした。

最期に甘えられる相手がいる人は幸せです。

私ももっと父に甘えたかった、話したかった。

父が亡くなって暫く何年も父の事を考えない日はありませでした。

時って大切とは分かっていたけど、かなりの年数はかかりましたが、少しずつ私の中で父の存在が緩やかに変化しました。

最初はただただ父を救えなかった後悔だけでしたが、今はきっと私と娘を守ってくれていると思えるようになりました。

それでも、夜になるとふと寂しくなる事があります。

夜空のどこかに父がいるような気がして、良い事があっても悪い事があっても星に向かって父に話し掛けています。

頑張っているから、これからもずっと私と娘を守ってね…。

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